慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵する関ヶ原の戦いが勃発すると、秀頼は西軍の総大将として擁立された、五大老毛利輝元の庇護下におかれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。だが、家康はその戦後処理において豊臣宗家(羽柴宗家)の所領を勝手に分配し、秀頼は戦前は日本全国に220万石あった所領の内、大名への預け地となっていた分をとられて摂津・河内・和泉65万石まで減らされ、政権後継者から摂河泉の一大名の立場となる。しかし、蔵入地に関しては存続していたようである(ただし徐々に支配権は幕府の管理に移ってゆく)。
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さらに慶長8年(1603年)、家康が朝廷より征夷大将軍に任じられ、江戸城の普請を行い武家政権構築を始めた事により、秀頼は実質的に権力の座から外され、徳川政権に組み込まれることとなった。豊臣家と徳川家の確執が起るが、同年には秀頼は秀吉の遺言もあり2代将軍徳川秀忠の娘千姫(家康の孫、母は淀殿の妹・於江与)と結婚し、慶長10年(1605年)右大臣となる。京都で秀頼と会おうとした家康は秀頼の上洛を希望するが、生母の淀殿が反対して拒否を続けた。このときは家康が断念し、六男・松平忠輝を大坂城に派遣し、面会させている。慶長16年(1611年)、後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は、「正室千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正・浅野幸長に守られつつ上洛し、京都・二条城で家康との会見を行った。
しかしその後も徳川家に臣従することはなかった。つまり秀頼は、形式的には依然として家康の主筋だったわけである。一方、秀頼にとっては頼るべき存在であった加藤清正・浅野幸長・池田輝政は大坂の陣が始まる前に病死してしまっている。